国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として明治政府によって建てられた社交場「鹿鳴館」

明治時代前半の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃だったといいます。そのため時の外務卿・井上馨は欧化政策を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示すために鹿鳴館を建てた、といわれています。
181005Rokumeikan
(画像はWikipediaより拝借しました)

鹿鳴館では連日連夜、政府高官や貴族、外国人が宴会、舞踏会開き風紀紊乱のそしりも受けました。宴会場だけでなく様式ホテルも併設されていたようです。

現在は取り壊されて跡地にプレートが残るのみで往年の華やかさをうかがうことはできませんが、それでも「鹿鳴館」といわれると、華やかな宴のイメージを思い浮かべる方も多いかと思います。

実は、当時のヨーロッパの人たちにはあまり評判がよくなかったそうです。
日本の政府高官やその夫人でも、西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知る人はほとんどおらず、物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方など、西欧人の目からは様になっておらず「滑稽」と思われていたとも言われています。

プレートは、千代田区内でも落ち着いた賑やかさのある、日比谷通りを挟み日比谷公園の向かい側にあるNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)向かって左の塀(帝国ホテルとの境)にひっそりと設置されています。
お近くを通りかかったら、プレートをぜひ、探してみてください?!


いずみ会計事務所へのご相談は>>コチラから